白詰草の花冠

過去の文章を残そうと思いました。全部過去になるからね。

無題

書きたいこと、たぶん色々あったりしたんだけど今日も書きたいこととは違うことを書く。なんでだろうね。(答えは出ているが説明できるだけの言語化はできていない)

 

私は一人でカラオケに行くことが好きなのですが、最近は全然行っていない。緊急事態宣言の影響でカラオケ店が休業しているから、という理由が一番大きい。ストレスが溜まったときや、自分の中でエネルギーがうまく消化されず具合が悪くなっているときなど、カラオケで大声を出すのが一番効果的なんだけど、そのカラオケという場所がないの、私にとっては結構痛手だなと思う。

 

それは置いておいて、カラオケに行く度に自分が歌っている姿または音声を記録している。ただ大きい声出せたら満足という気持ちがありつつも、せっかくならそれなりに歌いたい。音感がいいわけではないけど、歌っているときより歌っていないときの方がまだ色々分かる。音が全然届いてないじゃんとか無駄に長く伸ばしていて歯切れが悪くていやだなとか、逆に良く分からんけどここのフレーズだけよく歌えてるな……とか色々。いいところみつけるのも嬉しいけど、簡単に改善できそうな欠点(?)を見つけたときが一番嬉しいな。はよ次のカラオケ行きたい~~ってなる。

 

などと書いたけど、自分の声が結構好きなので聞いてると落ち着くとか、楽しんでる自分の姿を見るとその時に近い効果を得られるとか、そういう面のほうが大きいのかもしれない。(カラオケに行けずに不満が溜まってきたので、丁度自分のカラオケ動画をみている、テンポがずれてるとすごくムカついてしまうことが分かった)

 

あと、毎回不思議だな~と思うことがあって、大きい声だそうと力を入れているときよりも、音量下げようと思って力を抜いているときの方がマイクによく音が入っているんですよね。力入れすぎて潰しちゃってるんだな~とは思うんだけど全然修正できないし、感覚的にピンとこなくてずっと放置している。人間の体って不思議だね。

 

自分のこういうブログ、あんまり好きじゃないというか結構嫌いなので後で消すかもしれない。なんで嫌いなんだろう。なんか作ってる感じがしちゃう。落とし込めてないからなのかな。落とし込めてないことたちについて、ダサいと思っちゃってるんだと思う。

 

新しい職場、新しい環境に身を置くと、自分の失言(のように思われるもの)を振り返る時間が多くなって結構健康に悪い。ここではどのように振舞うべきか、どうしたら受け入れられるか、どうしたら馴染むのか、ということを一回一回やっていて、回数を重ねると、おおよそこうしときゃ安全みたいなテンプレートが確立されていくので頭を使わないで良くなって余裕ができるんだけど、今やっているテンプレート作りって果たして正しいのか?(正しくないと思っている、何故なら疲弊する忖度だから)

 

最近あったこと

・3月末に転職した

・前の職場が新店舗オープンした

スマホの画面が割れた

・DDJコントローラー買った

・大人になって初めてミシン使った

・職場の利用者さんが甘えてきてかわいい

・接点はないが一方的に知っていた人が大病を患い苦しい

・天狼院書店に初めて行った、本を一冊買った

・長所かもって思ってた部分について、長所だな!とほぼ確信を得られそう

・手相占いしてもらったら思いの外楽しかった

・ほぼ初めましてな人とお茶をして、なんか良かった

教科書とレジュメ

お久しぶりです。昨年末、転職したばかりの会社を退職し、無職になって1ヵ月半が経ちました。毎日のんびり過ごしているけど特に焦りもなく、のんびりした毎日に適応しています。忙しい毎日にも、のんびりした毎日にも、ぬるっと馴染んでしまうの「私だな~~」という感じがする。

 

のんびりって時間がいっぱいあって暇でつまんないかと思うじゃん?実際、もともとは「無職期間は新しく買った車で色んなとこいくぞー!」って意気込んでいたので出鼻くじかれた感はある。あるけど、のんびりって時間がいっぱいあって暇でつまんないかというと全然そんなことなかった。ご飯の用意してご飯食べてるだけで1日って普通に終わる。もちろん他にも何かしらしてはいるんだけど(洗濯物とか散歩とか食器洗いとか、母が録画した韓国ドラマを眺めるとか)、食事だけで1日が終わるといっても大袈裟じゃないくらい1日はあっという間だった。

 

予定がなんもない日も、予定を入れた日も、大して変わらない。この「変わらない」が何を比べて変わらないと言っているのか自分の中でぼんやりしていて当てはめる言葉や概念を掴めていないんだけど……変わると思っていたものが全然変わらなかった。現在進行形でびっくりしている。

仕事をしていたとき、私はどうやって日々を過ごしていたの?時間、こんなにあっという間なのに!こんなにあっという間の時間をどう切り刻んで、どうやりくりしていたの?えっこわい!(感想です)

 

1日、あっという間ではあるんだけど、やっぱり余白はあって、その分いままで避けていたこととか気に留めていなかったことに思考がいくようになった。時間空いたから皿あらっとこ~とか、排水溝きたない!(ゴシゴシ)、洗濯物たたも~とか、あっほこりだ~~!(ポイ)、お腹減った!野菜切っちゃお~、おひさまでた!日光あびよ~!(ガチャ)、わー!でかい綿毛だ!、本は本棚に戻す!、このチラシいらないじゃん(ポイ)、毛布ぐちゃぐちゃだ~(パタパタ)、雪だ!写真とろ!、梅だ!写真とろ!、友だちに連絡とってみよ!とかとか……挙げればキリがないけど、前は思いもしなかったことを思うようになった。忙しいな……(書きながら思わず笑った)

 

で、1週間前くらいに部屋の大掃除を始めたんだけど、10年くらい大掃除なんてやってないから、まぁこのままでいいや……で放置されたぐちゃぐちゃが部屋にはたくさん溜まっていた。でもそれを1つ1つ処理していくこと、意外と苦じゃない。(以前なら、まぁ収まってるしここは触らないでいいや……ってなってた)すごく不思議な感じだった。前とあきらかに行動が違うから。自然に手が動いて「えっ!このぐちゃぐちゃほっとかないんだ!」って驚いた。ここまでは良かったんだけど、いま部屋は大変なことになっている。だいぶ物を捨てたはずなんだけど、なんでだか部屋は狭い通路を残して、物が散乱している。加えて、まだ眠っている手つかずの箱もある。(この中に、いやもういいや…って精査せずに色々つっこんだ記憶がある…)

 

そんな状況の中で、ここからどう進めたらいいのかが分からなくなり、作業にも飽きてしまった。もちろんベッドにも多くのものを置いているので、寝る場所がない。(本人はある程度分類をして置いているつもりでいるので、それらを重ねたり束ねたり、どっかつっこんだりすることができない)今夜困るな~~せめて一晩いや二晩このままにさせて欲しい……と思っていたら、タイミング良くその日の晩から父が出張で父の部屋が空いた。ありがたく寝床を借りた。私のベッドより広いのでのびのび寝られる。最高。

 

タイトルに書いた話がまだ出てきてない!(最初に書こうと思ったことが全然書かれないの、あるあるである。なんなら毎回そうだ。)部屋からめちゃくちゃでてくるものの中に、教科書とレジュメがある。捨てられないんですよね。捨てたくない。と思いつついくつかの書籍は処分した。表紙が気に入っているもの、基礎的な知識を確認したいもの(主に生物や理科)についてはいくつか残して、教科書類は捨てた。大学の講義のために購入した書籍は人に譲ることができたもの以外は今のところ残している。いくつかは捨てるかもしれない。

 

レジュメは、教科書より捨てづらい。捨てたくないと思ってしまう。かさばるし見た目もよくないしまとまってないし参照しづらいのに……。レジュメには講師から学生へのフィードバックがあるものもあって、これは得難い、得難いよ……と強く価値を感じてしまう。捨ててしまったらもう買い戻したりできないんですよ……。しかも、その時私が講義を受けていたという自分の記録でもある。ウワーッ!捨てられない!捨てたくない!

 

データ化したら?という案もなしではないのですが、見えないものつまりデータを管理するのがとっても苦手なのでおそらく紛失する。予想がつく。前科もある。目に見える紙の方がまだ管理できる……とりあえずファイリングするところから始めたいな……と思って夕方ファイルを買ってきた。で、ぱちぱちプリントに穴をあけていたら、ずっと探していたレジュメが早々に見つかった。

 

アランの『幸福論』を取り扱った講義だったので、てっきりアランの話だと思っていたらなんとデカルトの話だった。講義本編ではなく「恋は思考できるものなのでしょうか?」という問いに対しての回答だった。

デカルトは雪とは何かについて考えるために雪を待ったと言われる。その線でいけば、恋をしているときに恋について思考するのでしょうね。(要約)」

雪とは何かについて考えるために雪を待ったというフレーズだけが残っていて、めっちゃあの頃の自分に響いたんだなと思った。理解まではまだ距離があっても、何か響く言葉や胸に残る言葉ってありますよね。かみ砕けなくても、感じられる言葉みたいな…。こういうのをなんて言ったらいいんだろう。何かを感知しているんだと思うんだけど……雰囲気が好きとは肌触りが好きな言葉とはまた違うんですよね……

 

この講義、毎回メールで感想的なものを提出していたんだけど、教授はほぼ毎回提出されたメールをプリントにまとめて、プリント上で返信していた。それって相当な労力が必要だと思うんだけど、それがめちゃくちゃ嬉しかったし楽しかった。他の学生や聴講生がどんな感想や疑問を抱いて、教授がそれにどう返すのか。やっぱり大学の講義楽しかったな~と思う。

通うのが辛くなって休学したこともあったけど、その時もなんでか「今は苦しいけど、本来学問は面白いはず」という気持ちはずっとあったし、実際に休学をはさんでまた学問が面白いってまた思えるようになった。どうして「面白いはず」って私は信じることができたんだろう。なんか結構大事なことな気がする……

(休学したときに、休学したら辞めるでしょwって笑ったやつのこと、いまだに根に持っています。許さん。学びを継続するために休学するんだよ~~くそ~~)

 

これは余談ですが(全部余談なのはおいといて!)自分の記憶がいかに曖昧で適当に作られてしまうかということを非常に意識させられることが複数回あり、なんか感心してしまった。根に持ってることも、実は結構記憶が違ったりするかもね。

 

なんか1時間くらいこれ書いてた気がする。びっくりしちゃった。

またね~~~

文芸 Advent Calendar 2020 -そういえば、ろくに本を読んでいない

海響舎の小澤さんの「文芸 Advent Calendar 2020」のツイートを見つけて、何か書きたい!私、本好きだし!と思って何も考えずに(少しは考えた)名前を登録した。しばらく経って気づいた。好きな本を黙々と読めていたのは幼稚園小学校中学校までで、高校から先はろくに本を読めていなかったことに……(本はいくつか購入している)

 

急いで新しく本を読もうかとも思ったが、なんかそれは違うなというのと、読もうとしたが( 読書珈琲リチル で過ごした時間を除いて)結局集中して本を読めなかったというのもあり、必死で1年を振り返った。読んでないと言っても、何冊かは読んだし、感銘を受けた記憶もある……自分自身、時間の感覚がわりと曖昧なこともあり、頭に浮かぶその本が今年読んだものなのか数年前に読んだものなのか分からない。

 

1冊だけ、確実に今年読んだとハッキリわかる本があった。

www.asunaroshobo.co.jp

昨年末に toi books で購入して正月休みの1月2日に読み始めてその日のうちに読了した。新年早々、気づいたら号泣していた。私の中にある、怒りや、もどかしさが流れ出すような感覚だった。

 

これは、その頃勤めていた職場の先輩が、冬休みにおすすめの本として中学生向けに紹介文を書いていた本だった。その先輩は、クリスマスを終えて職場を去った。慕っていた先輩だった。なんとなく、ここを去ってしまうことも、辛く苦しい時間を過ごしていることも察していたのに、何もできなかったし何も言えなかった。全然違うはずなんだけど、何故か自分のこの状況と、小説の物語を重ねてしまった。

 

だけど何より心を掴まれたのは、僕らには「物語が必要だ」ということ。私は物語に救われてきた人間だから、そのことを肯定されたようで(なんとなく物語に救われていることに引け目のようなものがあったのかもしれない)心強さのようなものを感じた。

 

ギリギリの公開になってしまったけど、なんとか間に合った…(?)また後日、小説を読み返しながら印象的だった箇所について書き加えたいと思う。できれば年内のうちに。紹介というより半分以上自分語りになってしまったけれど、そういうのも悪くないかなと思うのでお許しください……

 

文芸 Advent Calendar 2020

前回は 麻さん の コリオレイナス、そしてシェイクスピアという沼に落ちて でした。

次は paina さんです。よろしくお願いします!

自分が何を考えているのか、私は知らない

絵をかきたいな、とか文章を書きたいな、とか

色々思うものの全然すすまずにいる

なんとなくやる気が起きない、寝ている

 

スープ作りを始めて、挫折(?)していたが

今日やっと、母の作ったスープを持っていくことを

受け入れることができるような気持ちになった。

 

とはいえ、これは敗北とも呼べるかもしれない。

母がスープを作れば、私はスープを作ることができなくなる。

正確には、「好きなタイミングで」作ることができなくなる、だけど

 

畑も本当は自分の手に収まる範囲で、

好きな手間のかけ方で再開したいと思っている

でも、自分の手に収まらない範囲に

不本意に拡大されていくことを思うと

最初からやらない方がいいんじゃないの、と思う

 

できる範囲のことしかやりたくないんです

このできる範囲というのはちょっと難しくて

やりたいと思える範囲、という方が正確かも

できないこと、難しいことでも

やりたいと思える範囲で、手間をかけたりコストをかけたり

苦しんだり楽しんだりしたい

 

イベントでもなんでもそう。

もっといいやり方があるよって言われても

私はうまくやりたいんじゃなくって

このやり方を試したいんだよって思う

このやり方だから、やりたいと思えたんだよって。

これは、書いていて初めて言語化できたような気がする

(既出だろうか?)

 

ああ、またなんも書くことないと思いながら

最初の数行を書いたら、たらたらと書けてしまったな

意外と自分が何を考えているか、私は知らない

今夜は言葉遊びです

あらゆるものから逃げて

洗濯物の香り
刺さる、ああ、生き物

蛍光灯のひかり
うずく悔いと胃炎

日々のかたらい
木々のまたたき

ぬいぐるみの視線
珪藻土の怒り

溜まる洗い物
線書く子ども、あおい

変わりゆくものから癒えて

また書きたいことがなくなってしまった

書きたいことがない、と思って書き出すとき、頭の中で考えていることは結構いっぱいあるんだよな、、、と思う。考えていることを言葉にするのには時間がかかる。アイスクリームが固まるのに時間がかかる、みたいなもんだと思う。絡まった複数の糸から一本一本抜きとって揃えていくような作業だとも思う。書くのが億劫になってしまうときは、考えていることがいっぱいあるときなのかも、と気づいた。実際そう。今もそう。

転職のこととか、今後の人生のこととか、目先の暮らしのこととか。そういうことを色々考えている。それを丁寧に言葉に変換していくのは大変。難しい。やったらいいのにとも思うんだけど。深く考えていることほど、正確に表せていないことにストレスを感じてしまうので全然筆が進まなくなる。そいういうことは書きたくない。

でも書きたくなっちゃったから、メモだけ書くね。私の怠惰を許せ。

長野に移住したい。あんまり人が多くないところで、しばらくひとりで暮らしてみたい。お金のことも考えたくない。そう思うと自然と払われない税金とか嫌だな。全部引き落としにしたい。でも引き落としにするにはそのための手続きが必要?人が生きるのには時間も手間もお金もかかる。嫌だな~~わがままなのは分かっているけど。どうして生きるのにこんなに手間がかかるようになってるんだろう。

好きな人と会いたいと思ったタイミングで会って、行きたいと思ったタイミングで行きたい場所に行きたい、自分の時間で生きたい。ご飯も好きなタイミングで食べたい。お腹が空いたときに、空いた分だけ食べたい。そろそろ食べなきゃな~~とか嫌。痩せても太ってもいいじゃん、生きていたら。と思う気持ちと、好きなだけこだわって整えて自分の好きな体型や体調を揃えたいという気持ちもある。好きなタイミングで好きなほうに極振りしたい。いちいち、さっきまではAでやってたけど、今からはBなんでっていうのを人に説明したくない。好きにやらせろ。構うな。私は私のルールの中で生きてる。昨日のルールと今日のルールは違うんじゃ。

こんなんで生きていける?時々はこんなんで生きていけるかも。その時々が今なのかな?少しの間、たくさんを捨てて、散歩したい。全部一瞬やからな。

なんにもならない話

 Twitterで、ねずみホイホイってあるんだね、というツイートをみて、めちゃくちゃ悲しかった日のことを思い出した。

 

夜、きゅうきゅうと音がしていた。音の出所を調べると、そこにはゴキブリホイホイがあって、中には小さくて白いネズミがいた。しばらく鳴いたあと、静かになる。それを何度も繰り返していた。あんまり必死な声で鳴くので、つらくて仕方なかった。

インターネット検索を使って、ゴキブリホイホイからネズミを逃がす方法を探す。どうやら、ベビーオイルを使えば剥がせるらしい。油分が、粘着剤を溶かして(?)くれるらしい。ほっとした。その時、私は、当然のように、母もこのネズミを気の毒に思って、できるなら助けてあげたいと思っているのだと思っていた。

助ける方法を伝えると、渋い顔をしていた。「やめてよ」と言われた。

ネズミの生活は、人間の生活に対して害をなす。ネズミの糞、ネズミの声、衛生面にも精神面にも影響を及ぼすことが、これもインターネット検索で分かった。自分が考えていたよりも深刻な影響があるようで少し驚いた。

それでも、悲しそうに聞こえる声をこのままにしておくのは、私の心が耐えられなかった。どうして、悲しそうだと感じてしまうんだろう。少しずつ声が弱くなっていっていくのも堪えた。いっそ、息絶えてしまえば、間に合わなかった、仕方なかったと思えるのに、とも思った。ネズミはまだ生きていた。助ける方法を知ってからの時間が長くなっていくにしたがって、どんどん辛くなっていった。自分の生活だけでもつらいのに。他のことに構っている余裕なんて全然ないのに。みんな私の知らないところで元気でいてよ。

そのあと、やっぱり耐えられなくて、昔無印で買ったオイルとゴキブリホイホイを持って外にでた。寒かった。油を垂らしながら、粘着剤をとっていく。ネズミはもう十分弱っていた。でも温度があって、呼吸も拍動もあって、触れられたことそのものに喜びがあった。粘着剤が毛に絡んでしまっていて、なかなか取れない。強く押せばつぶれてしまいそうで、生き物の扱いは難しい。オイルを垂らしながら、毛をなでるようにほどいていく。オイル、効果ある…!少し希望が見えてきた。同時に、こんなに弱って、油まみれで、ここから逃れたところで、どう生きたらいいのか、とも思った。

ちょっと待ってね、あと少しだからね、と毛をほどく作業をすすめているうちに、ネズミが体をねじった拍子に、溜まったオイルがネズミの口にずるずると入ってしまった。焦ってオイルを使いすぎてしまった。手の中でまだネズミは生きている。誰にも相談できなかった。私はなんのために、こんなまっくらで寒い中、こんなことをしているんだろう。ネズミがきゅうきゅう鳴いている。よかった、まだ声がでる。でも、少しずつネズミの動きは緩慢になっていって、あっという間にぐったりと力を失ってしまった。ああ、もう間に合わないんだ、どうしようもないんだと思った。

私が何もしなくても、この子は死んでしまったし、私がオイルを垂らしたから、この子は死んでしまったし、なんだかぐちゃぐちゃな気持ちで、自分が遠かった。

せめて、粘着剤をはがしてから土葬しようと思ったけど、これ以上オイルまみれにすることが良いことなのかも分からなかったし、きれいに剥がせるまでの道のりは遠く思えた。何より、もう頑張れなかった。脱力してしまった。

力の入らない手で木の根元をゆっくり掘った。ぼんやりしていたので、思いがけず深い窪みになった。そこへネズミを寝かせようとしたけれど、粘着剤の付いた台座が邪魔をする。なんで?腹が立った。悲しかった。少し穴を広げて、台座を折り曲げて、土に沈めた。

 

いつものことですが、この話にオチはない。そうでした、というだけの話。