白詰草の花冠

過去の文章を残そうと思いました。全部過去になるからね。

過去の気持ちを思い出したり

書くたびに久しぶりなブログである。

転職して早々、新型コロナウイルスの影響でリモートワークになった。

穏やかな日々が続いている。ほどほどに仕事をし、ちょっとした成果もでて(ちょっとした、というと協力してくれた人々に対して失礼にあたるかもしれないが、自分があげた成果についてはちょっとした、としたい、しかしちょっとだろうとなんだろうと成果は成果である)良い感じにやりがいもあり、ちぐはぐな環境の中で割といい感じの波に乗れている。

我が家は、収入面では全くといっていいほど影響を受けておらず、なんだか大変な事態ということをぼんやりとしか感じられずにいる。少なくとも眼前に迫るような恐怖や焦燥に出くわしていない。

過去の私であれば、こういった状況で自分はどういう顔をしているのが正解か分からず、自分がなんの被害も受けていないことを申し訳なくおもったりして罪悪感に押しつぶされそうな日々を送っていたのかもしれないが、良くも悪くもかなり図太くなったのでそういった精神的な苦痛もない。

苦しんでいる誰かがいることは辛いが、そこに私が罪悪感を感じたところでただ私の精神状態が悪くなるだけで何にもならない。むしろ、それによって周囲の人々を傷つけたり、疲弊させたりする。(そういいきかせてきた節もある)

苦しみのことを考えることを放棄してはいけないとも思う。だけど、自分はどんどん愚鈍になっていく。愚鈍になったほうが、うまく立ち回れるだろう、誰かの盾にもなれるだろう。しかし愚鈍なままで誰かのために立ち回ろうとするだろうか。誰かの盾になろうとするだろうか。よく分からない。

違う、今日書きたかったのはこういうことじゃない。私が私を取り戻しつつあるということを書きたかった。

必要以上に罪悪感を感じなくなった、物を整えるのが楽しいと思えた、もう少ししたら読書も楽しめるようになるだろう。胸が重く苦しなって、動けないような体の重さを感じることもなくなった。でもまだ、仕事以外の何かに熱中することはできていない。

1年前、深夜に仕事を終えて、泣きながら自転車を漕いでいたとき、「あきらめたくない」としきりに呟いていた。何をあきらめたくなかったんだろうか。それは自分をあきらめたくないということだと思うのだけど、具体的に何をどうしたいというのがさっぱり分からなくなってしまった。なんだかずっと物足りない。時間を惜しんでやりたいことがない。(奇抜な夢ならずっとみていたい)

と思っていたんだけど、今朝は仕事を始める前に少しだけ整理整頓をしよう、本を並べよう、と思って手をつけだしたら楽しいとかそういうのを認識するより前に、集中していて、気づいたら仕事の時間だった。まだそれを続けたかったので、「ちょっとゆっくり仕事はじめます」と連絡して1時間ほど整頓を続けた。楽しいとかじゃなくて、能動的にやりたいことが欲しかったんだと思った。それができてなんだか胸がすっとするような気持ちになった。明日も部屋をいい感じにしたい。明日もそう思える気持ちが残っていますように…

だいぶ勢いだけで書いてしまった。まぁいいか。そうしたかったからそうしているし。仕事で書いた文章を褒められて、お世辞でも嬉しかった。外部の人も交えて商品(?)の名前決め会議もした。提案した名前がすんなり好印象で嬉しかった。でも文章を褒められて感じるのは、嬉しいだけじゃなくて恐怖もある。もし自分の書いた文章が説得力がある文章になっているのだとしたら、私の言葉は強い暴力をふるうことができるということだから。誰かを動かす可能性があるから。特に仕事で文章を書くときは気をつけたい。自分の気持ちは無視して、だれかの言葉や意図が強く伝わるようにすることに注力するから。

書いていて思ったけど、誰かの代わりに文章を仕立てることは演劇に似ているなと思った。私がやってきた演劇はそういうものだったと思う。誰かの代わりに想いを伝える、そのために何が最良なのか考える、こわいな、少し。ちゃんと自分の想いをのせるようにしよう、のせないにしても確かめるようにしよう、そしたらきっと自分に失望するようなことにはならないはずだから。何が自分で何が自分じゃないかすぐ忘れそうになるので頑張ろう。

 

 

駅から走って駆け込んだサーカスのテント、見逃したオープニング、首を振るキリン、宙を舞うキリンの毛、照明でキラキラ光って雪みたい、それを受け止めようと手を伸ばす、